死にたいと自殺を考えている人に禁欲者の端くれとして伝えたい事(禁欲 429日目・一食 248日目)

先日久々に強烈な事件を見ました。

男女9人の遺体が部屋に・・・という事件です。今年8月から犯人は殺人を行っていったようですが「悪魔にでも憑りつかれたのか」というくらいの非道な所業でした。

 

はじめに

このブログではあまりゴシップ的な日常の記事や特定人物の事を絡めて記事にする事は極力控えていますが、今回は少し趣旨を変更します。

話を元に戻し、今回の事件で犠牲になった方々の共通する点は「自殺願望」でした。年齢も若かったのでそこまで深いものではなかったかもしれません。

しかしそこにつけこんだ犯人の手口は卑劣極まりないのですが、今回はこの「自殺」というシビアな点を記事にしようと考えました。

 

死にたいという願望

この「死にたい」という願望、人間引くに引けない窮地に追い込まれたり、相手や周りの環境からの精神的な被害で、もうどうにもならないという状況の中で、そこから「逃げ出したい・楽になりたいという心」が自分の中に現れ、その結果「死」が連想されて出てくるのだと思います。

人生を生きていると誰にでもそのような場面があると思います。しかしここで「一線超えて踏み切ってしまう人」「思いとどまる人」とに道が分かれていきます。

「この違いはなんなのか?」と考えた時に思いつくのが、思いとどまる人は「まだ生きていたい」「死ねない」と思う心、いわゆる「生命エネルギー」が湧き出て自殺行動にストップをかけます。

 

生命エネルギーとは

この生命エネルギーとこのブログで私がよく書いている「性エネルギー」、ほぼ「同等のもの」だと私は考えています。

房中長生術などスピリチュアル(宗教的)の観点からも同じで、性エネルギーとは「森羅万象・人間の根本のエネルギー」と見なしています。

そこで先ほどの「踏み切る人とこらえる人の違いは何か?」と問うた時に行き着くのは、やはり「体内にある性(生命)エネルギーの違い」なのだろうと考えました。

踏み切ってしまう人はこのエネルギーが「枯渇状態」であると推察します。

 

禁欲(オナ禁)によっての生命エネルギーの貯蔵

ただ、この性エネルギーはこのブログを読んでいただいている、常連読者の方はお解りだと思いますが「体内に貯蔵する」ことが出来ます。

性(生命)エネルギーが足りなければ「禁欲をしていつでもだれでもが貯蔵」することが出来ます。

ここで私が言いたかった事は「自殺に踏み切るくらいなら、まず思いとどまって1、2か月でも禁欲して性エネルギーを溜めてから考えてみたら?」という事です。

言い換えると、死を覚悟しているのであれば1、2か月程度の禁欲なんて余裕のはずです。

 

お釈迦様とクリシュナさんの言葉

お釈迦様の言葉でこういう言葉があります。

「仏像作って魂入れず」

またクリシュナさんもこうよく話しています。

「立派な祭壇作っても仏像置いてない」

この2つの意味は同じで簡単に表すと「生きているのに性エネルギーが自分に入って(入れて)いない」という事です。

ここは大事だと思うので何度も言いますが「自殺を考えるのなら、ひとまず禁欲して魂・仏像(性エネルギー)を自分の中に入れて”本来の自分”になって考えてからでも遅くはない」という事です。

 

まとめ

不射精禁欲をしてから、私が考えるに自殺に踏み切るには多大なエネルギーを要すると思います。

ただそのエネルギーとは「枯渇した負のエネルギー」でしかありません。

禁欲で溜まるエネルギーは「正」です、これは間違いありません、断言します。その「正の思考」に自分が変化してから自殺を考えても遅くはないです。

ただ長期禁欲して、その正の思考でもダメだったのなら仕方がありません、もう誰にも止められないと思います。

また、スピリチュアルな観点からも自殺はよくありません。

まとめが終わった最後にクリシュナさんの「自殺をして良い人と悪い人の重い言葉」を書きますが、参考にして考えてみてください。

そして最後になりますが、この度の事件で悲劇に遭われた方々のご冥福を心からお祈りいたします。

 

 

 

 

ラーマクリシュナの福音

ラーマクリシュナ:自殺はたしかに極悪な重罪だ。自分を殺す者は、いくたびもこの世に戻って苦しまなければならない。

しかし、人がもし神のヴィジョンを得た後に肉体をすてるなら、私はそれを自殺とは呼ばない。

そのようにして肉体をすてるなら別に害はないのだ。知識を得た後には、ある人びとは肉体をすてる。

土の鋳造の中に黄金の像ができあがった後には、鋳造はとっておいてもよし、壊してもさしつかえはないだろう。



さよならも言わずに逝ったあなたへ―自殺が遺族に残すもの

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